1859年、ルベリエは1859年3月26日に太陽面にちょうど 太陽面を惑星が通過しているように見える丸い黒い点を 見つけたことを伝えるアマチュア天文家のレスカーボルトからの手紙を受け取り ました。 彼はこの黒い点が太陽直径の4分の1を移動する1時間15分の間観察しました。 レスカーボルトは軌道傾斜角 は5.3度から 7.3度、その昇交点黄経は183度、その離心率はかなり大きく、太陽を横切る のに4時間30分を要するとしました。 ルベリエはこの観測を検討し、それからその軌道を周期は19日 7時間、太陽からの平均距離は0.1427天文単位、軌道傾斜角は12度10分、 昇交点は12度59分と計算しました。 その直径は水星よりもかなり小さく、その質量は水星の17分の1でした。 これは水星軌道のずれを引き起こすには小さすぎましたが、これは果たして 水星の内側の小惑星帯の最大のメンバーだったのでしょうか? ルベリエはこの惑星のとりこになり、その名をバルカンと命名しました。
1860年に太陽の皆既日食がありました。ルベリエはフランスのすべての天文学者や 他の数人の天文学者にバルカンを見つけるように動員しましたがだれも見つけることは できませんでした。 ルベリエはウオルフの疑わしい"黒点" に興味を再び引かれ、1877年にルベリエ が死ぬまでにいくつかの"証拠" がさらにでてきました。 1875年4月、ドイツの天文学者 H.ウエーバーは太陽に丸い点を見つけました。 ルベリエの軌道はその年の4月3日に太陽面を通過することを予言しており、 ウオルフは彼の38日周期の軌道もやはりこの頃太陽面を横切ることに気がつきました。 この丸い点はグリニッジとマドリードで写真に撮影されました。
1878年7月29日の皆既日食の後もう一つの波乱が起きました。 2人の観測者が太陽の近くに水星軌道より内側にあるとしか見えない ような小さな照らされた円盤があると主張したのです:J.C.ワトソン (ミシガン大学の天文学の教授)は2つの水星の内側にある惑星を てっきり見つけたと信じたのでした! ルイス・スウィフト(1992年に回帰したスウィフト・タットル彗星の発見者の1人) はバルカンに違いないと思われる星を見つけました――しかしワトソンの2つの 水星の内側にある惑星のどちらとも違った位置でした。 さらにその位置はワトソンのいうバルカンともスウィフトのいうバルカンとも またルベリエやレスカーボルトのいうバルカンとも一致しなかったのでした。
これ以後、それぞれ違った皆既日食の時に数人が探索しましたが、だれもバルカン を再び見つけることはありませんでした。 そして1916年アルバート・アインシュタイン が一般相対性理論を発表し、これによって水星より内側の未知の惑星を想定する必要も なく、水星の軌道運動のずれが説明されました。 1929年5月、ポツダムのアーウィン・フロインドリッヒはスマトラの皆既日食の 写真を撮影し、豊富な星像が写ったこれらの写真乾板を後に注意深く調べました。 比較のための写真乾板は6か月後に撮影されました。 9等より明るい未知の天体は太陽付近には見つかりませんでした。
しかし実際に数人の人たちが見たのは本当は何だったのでしょうか? レスカーボルトがわざわざうそをつく理由はなかったし、ルベリエでさえ彼を 信じたのです。 レスカーボルトは、たまたま小さな小惑星が地球のごく近く、 地球軌道のちょうど内側を通過したのを見たのかもしれません。 このような小惑星は当時は知られておらず、レスカーボルトが 水星の内側の惑星と思いこんでも無理ありませんでした。 スウィフトとワトソンは皆既日食の間に観測を急いだため、いくつかの星の 同定を誤り、バルカンを見つけたと信じたのでしょう。
バルカンは1970年から1971年頃ほんの少しの間だけよみがえりました。 2、3人の研究者が皆既日食時に数個のかすかな天体を太陽の近くに 検出したと思ったのです。 これらの天体は暗い彗星だったのかもしれません。 後に太陽の十分近傍を通過し、太陽と衝突する彗星が観測されたのです。
興奮の金曜日の後、この"天体"は月の速度としておかしくない 4 km/s の速度で 運動していることが計算され、JPL(NASAジェット推進研究所)のマネージャーが 呼ばれました。 彼らは瀕死の探査機を紫外線チームに引き継がせました。そして 誰もがその土曜日に記者会見が予定されていることに悩みはじめました。 この疑惑の月を報道すべきでしょうか? しかし記者達はすでに知っていました。 いくつかの新聞―有力紙―はまじめに扱いましたが、多くはこの 水星の新しい月についての話にとびつきました。
そしてこの'月'はどうなったのでしょうか? それは水星から離れてしまい、結局、高温の星コップ座 31 番星であると同定されました。 惑星へ向かうときに検出された最初の放射は何であったのかは謎として残りました。 水星の月の物語はこれで終わりですが、同時に天文学の新しい章が始まったのです。 極紫外線は星間物質中では以前考えられていたように完全に吸収されるのではない ことがわかったのです。 すでにガム星雲はきわめて強い極紫外線を放射しており、 540オングストローム(1000万分の1ミリメートル)の波長では、その広がりは140度 に達することがわかっています。 天文学者は宇宙を観測する新しい手段を発見したのです。
今や天文学会に論争が起こりました:数人の観測家は衛星が見えたことを報告し別の 数人は努力を傾注したが見つけることはできませんでした。 1766年、ウイーン天文台台長ファーザー・ヘルは衛星の観測すべては 光学的なまぼろしである――金星の像があまりにも明るいので目の中で反射し、望遠鏡に もどった光が小さな第二の像を作りだした――と断言する論文を発表しました。 一方、観測は事実であると断言する論文を発表した他の天文学者たちもいました。 ドイツのランベルトはベルリン天文学誌に1777年衛星の軌道要素を 発表しました。それは平均距離は金星直径の66.5倍、軌道周期は11日3時間、 軌道傾斜角は64度というものでした。 この衛星は1777年の金星の太陽面通過時に見えるだろうと期待されました。 (ランベルトがこれらの軌道要素を計算するにあたって間違いを犯したのは 明らかです。金星の半径の66.5倍、これは金星からの距離は私たちの 月と地球の間の距離と はぼ同じです。このことは軌道周期が11日、つまり私たちの月の 軌道周期の3分の1よりやや大きい程度ということとは全く一致しません。 金星の質量は地球の質量より若干小さいからです。)
1768年、衛星の観測がコペンハーゲンのクリスチャン・ホレボウによって 再度行われました。 さらに3回の探索が行われました。そのうちの1回は高名な天文学者の一人である ウイリアム・ハーシェル によって 行われました――3回の探索のどれでも、いかなる衛星も発見されませんでした。 このゲームにずいぶん遅れて参加したドイツのF.ショールは、 1875年に出版した本でこの衛星の存在の有無をくわしく調べました。
1884年、ブリュッセルの王立天文台の前台長M.ホゾーは別の仮説を考えました。 手に入れた観測データ解析からホゾーは金星の月は2.96年もしくは1080日ごとに 金星に近づくように見えると結論しました。 ホゾーはそれは金星の月ではなく、太陽の周りを283日ごとに回り、それゆえに 金星と1080日ごとに合になる惑星自身であると考えました。 ホゾーはこの惑星をニースと名付けました。誰もその顔のベールを上げることができ なかったサイスの謎の女神にちなんた名前です。
1887年、ベルギー科学アカデミーはすべての報告された観測をそれぞれ 詳細にわたって検討した長い論文を発表しました。 衛星のいくつかの観測は金星の近くの実際の恒星でした。 ロードキヤーの観測は特に点検されました。 彼は連続してχ Ori, M Tau, 71 Ori, νGem にだまされていたのです。 ジェームズ・ショートは実際は8等より暗い星を見ていました。 ルベリエとモンターギュによる観測もすべて同じように説明されました。 ランベルトの軌道計算もくつがえされました。 1768年のホレボウによる最後の観測はζ Libによるとされました。
この論文が発表されてから、新しい観測が1回だけ報告されています。初期に金星の衛星探索を 行い、検出に失敗したことのある男によって報告されました:1892年8月13日、 E. E. バーナード は金星のそばに7等の天体 を記録したのです。 バーナードによって記録された位置には恒星はなく、バーナードの視力は優秀 であることは当時有名でした。 彼が何を見たのか今もまだわかりません。それは記録されてなかった小惑星 だったのでしょうか? それとも、たまたま他の誰も見ることができなかった短期間の新星だったでしょうか?
「これは隕石だが巨大なもので、地球に引かれて 衛星のように回り続けている。」と、バービケーンは言った。ジュール・ベルヌは数百万もの人々によって読まれましたが、1942年になるまで だれもベルヌの文章の矛盾に気づきませんでした。「地球が二つの月を持つだなんて、そんなことがあるのかな?」 と、ミシェル・アーダンは 声高に言い返した。
「そうだよ、友だち君。普通、月は一つしかないと思われているがね。 ところが、この第二の月はあまりにも小さく、しかもその速度がばかに大きいので地球からは 肉眼でみることができない。 月の運動の乱れに気づいてフランスの天文学者モンシェール・プティは第二の月が 存在すると結論し、その軌道を計算したんだ。 彼によるとこの月が地球を完全に一周するには3時間20分かかり...」
「すべての天文学者がこの衛星の存在を認めているわけかな?」と、ニコールが尋ねた。
「いいや、」バービケーンが返答した。「でも僕たちのように実際にこれを見れば、 彼らも疑うことはできないだろう ... しかし、これのおかげで宇宙空間での僕たちの位置を決定することができるわけだ。 ... こいつの地球からの距離はわかっているから、僕たちがこれに出会ったのは地上から 7480 km の高度だったとわかるわけだ。」
それにもかかわらず、ジュール・ベルヌはプティの第二の月を世界中に知らしめました。 アマチュア天文家はこれは名声をあげるよい機会だと結論に飛びつきました。 この第二の月を発見した者はだれでも科学史に名前を残すでしょう。 地球の第二の月の問題について、大きな天文台では検証は行われませんでした。もしかすると 検証作業をしたかもしれませんが、少なくとも結果については何も発表していません。 ドイツのアマチュアはこのクラインチェン (ちっちゃなもの)と呼ばれるもの を探し求めましたが、もちろん クラインチェンが見つけられることはありません でした。
W. H. ピッカリングは この問題の理論面に着目しました。すなわち、もし 320kmの上空を衛星が回って、その直径が 0.3m で、月と同じ反射能をもって いた場合、3インチの望遠鏡で見えるはずであると。 衛星の直径が3mあれば、5等級 となり、肉眼で見えるでしょう。 ピッカリングはプティの天体を探すことはしませんでしたが、第二の月の探索は 行いました。彼の探した第二の月は、私たちの月の衛星 ("月の衛星の写真探索について", ポピュラーアストロノミー誌, 1903)です。 その結果は否定的で、ピッカリングは月に衛星があったとしても3m以下である と結論しました。
ピッカリングの地球の第二の月の可能性に関する論文、"隕石衛星"は1922年 のポピュラーアストロノミー誌に掲載され、アマチュア天文家たちに別の小さな波乱を 引き起こしました。というのはその中で"3-5インチの望遠鏡と低倍率の接眼レンズ があればその天体を見つけられる可能性がある。そしてこれはアマチュア天文家にも 発見の可能性があるということである" という現実的な可能性があったからです。 しかし、すべての探索者たちは今度も実りを得ることができませんでした。
もともとの考えは、私たちの大きな月の運動にある説明の つかない小さなずれを第二の月の重力で説明するためでした。 このことから、天体は少なくとも数マイルの大きさをもつはずです ――しかし本当にこんなに大きな月があるのなら、はるか昔にバビロニアの人たちに よって発見されていたはずです。 たとえ、大きさがわからないほど小さくても、近くにあることから、その運動は速いはずで、 現在の人工衛星や飛行機をみればわかるように、目立つはずです。 一方、小さすぎて見えないような月にはだれも興味をもちませんでした。
地球の第二の天然の月に対しては別の提案がありました。 1898年、ハンブルグのジョージ・ウォルトマスは第二の月ばかりでなく 小型の月の全系を発見したと報じました。 ウォルトマスはそれらの月の1つの軌道要素を与えました。それは地球からの距離は 1,030,000 km, 直径 700 km, 軌道周期 119 日、朔望周期は117日という ものでした。 "ときとして、それは夜中でも太陽のように輝く"とウオルトマスは述べています。 彼は、グリーンランドで冬のために太陽が沈んでから10日後の1881年10月24日 にロイト・グリーリィによって観察されたのがこの月だと考えています。 世間の人たちは、第二の月が1898年2月2、3、4日に 太陽の前面を通過するというウォルトマスの予測に興味を引かれました。 2月4日にグライフスワルト郵便局の12人(局長チーゲル氏、 彼の家族と郵便局の従業員)はまぶしさを遮ることなく肉眼で太陽を観察しました。 ばかげた情景を想像するのは簡単です。 押し付けがましそうなプロシアの公務員が、自分のオフィスの窓から空を指さし おとなしい部下に対してウォルトマスの予報を声高に読み上げる情景を。 インタビューを受けたとき、証人たちは太陽のみかけの直径の5分の1の大きさ の黒い天体がベルリン時間の1時10分から2時10分に太陽前面を横切ったことを 話ました。 それはすぐに間違いであることがわかりました。なぜならちょうどその間、 太陽は2人の経験ある天文学者であるイェーナの W.ウィンクラーとオーストリア、 ポーラのイボ・フォン・ベンコ男爵によって詳しく調べられていたからです。 彼らは2人とも太陽にはほんの少しの普通の黒点しかなかったと報告しました。 ウォルトマスはこの失敗やその後に発表した予報の結果にめげずに予報を続け、確認を求めました。 当時の天文学者たちは世間からの "ところであの新しい月の話はどうなりましたっけ?" という質問に何度も何度も答えなければならないことにいらだっていました。 しかし、占星術師の人気は得られたようです。 ―1918年占星術師セファリアルはこの月に リリスと名付けました。 その黒さのためほとんどの場合は直接見ることはできず、遠地点付近か太陽面を 横切るときしか見えないと彼は考えました。 セファリアルはの批判を受けたいくつかのウォルトマスの観測に基づいてリリスの暦を 作成しました。 彼はリリスの質量は月と同じくらいだと考えました。 このような衛星は、たとえ目に見えなくても、 地球の運動に影響を与えることで存在がわかるはずであることに、 お幸せにも気づいていなかったのは明らかです。 そして今日でも数人の占星術師はこの"黒い月"リリスを使って星占いをしています。
ときどき、ほかの"別の月"が観測家から報告されました。ドイツの天文学雑誌 "ディ・ステルネ" はドイツのW.スピルというアマチュア天文家が1926年 5月24日に第二の月が私たちの第一の月の前面を横切るのを観測したと報告しました。
人工衛星がまじめに議論されるようになった1950年ごろ、人工衛星とは、 多段式ロケットの燃え尽きた上段部のように、 電波送信機はもっていないけれども地球からレーダーで追跡できる ようなものと誰もが考えていました。 そのような場合、近くにある小さな天然の衛星の集団は人工衛星と同じように レーダービームを反射するので最も困るものだったのでしょう。 そのような天然の衛星を探索する方法は クライド・トンボーによって開発されました: たとえば5000 km上空の衛星の運動が計算されたとします。 そして空を正確にその割合で走査するようなカメラの台が製作されます。 このカメラで撮影された写真には星々、惑星などは線として写るのに対して、 正確にこの高度にあるどの衛星も点のように写るでしょう。 もし衛星の高度が少し違っていれば、短い線となって写ります。
観測は1953年ローウェル天文台で開始され、まったく新しい分野が 開拓されました:"クラインチェン" を探索していたドイツ人は別として、 月と地球の間の空間に注意を払った人はいなかったのです! 1954年秋までに、評判の高い週刊誌や日刊新聞にはこの探索が最初の結果 をもたらしたことを報じました:小さな天然の衛星を高度700 kmと 1000 km外に発見したのです。 ある将軍は"本当に天然のものだと確信できるか?"と尋ねられたと語りました。 この報告がどのように出されたか、だれも知りませんでした。捜索は完全に 否定的だったのです。 最初の人工衛星が1957年と1958年に発射されたとき このカメラは代わりにそれを追跡しました。
しかし不思議なことに、これは地球には1つしか月がないという意味では ありません。地球には非常に近い衛星が少しの間だけ存在したのです。 流星物質 が地球をかすめ、上層大気を通過する際、速度が落ちて地球の回りを まわる衛星軌道にはいる可能性があるのです。 しかし、近地点通過ごとに上層大気を通るので、そう長くは続きません。たぶん 1回転か2回転、場合によっては100回転(約150 時間)程度です。 そのような"短命の衛星"が観測されたことが数回あります。プティの観測者が その一つを見た可能性も十分あります。
短命衛星に加え、さらに2つの可能性があります。 1つは月それ自身が衛星をもつという可能性――数回の探索にもかかわらず見つかりませんでしたが (さらに月の重力場は一定でなく、こぶだらけになっているため、月に衛星が あったとしてもその軌道は不安定です――どのような月の衛星もかなり短期間 、数年か十年程度ののちに月と衝突してしまいます)。 もう1つの可能性としては、月の60 度前方もしくは後方を運行する トロージャン衛星、 すなわち月の軌道上にある第二の衛星、が存在しているかもしれません。
そのような"トロージャン衛星"はポーランドの天文学者クラコウ天文台の コルデルスキーによって初めて報告されました。 彼は1951年によい望遠鏡で肉眼探索を開始しました。 彼は月の軌道上には月から60 度離れてほどよい大きさの物体があることを期待 しました。 探索は否定的でしたが1956年彼の同国人で同僚であるウィルコウスキー が、個々には観測できない多くの小さな物体が集まって塵粒子でできた雲のよう にみえる物体があるかもしれないことを指摘しました。 その場合、望遠鏡を使わないでも、肉眼でよく見えるでしょう。 望遠鏡を使うと"拡大しすぎ"てしまうので。 コルデルスキー博士は自分でやってみようとしました。 観測には空の澄み切った暗い夜で月は地平線下にあること必要がありました。
1956年10月、コルデルスキーは初めて2つ位置の1つにかなり明るい 斑点を見ました。 それは小さいものではなく、2度角(すなわち月自身の大きさの約4倍)に広がっており、 非常にかすかでした。見るのが難しいことで知られているゲーゲンシャイン (対日照;countergrow=黄道光の明るい斑点で太陽の反対側の位置に出る)の明るさの 半分程度にすぎませんでした。 1961年3月と4月、コルデルスキーは期待される位置付近に2つの 雲のようなものの写真を撮影することに成功しました。 その広がりは変化していましたが、それは照らされ方が変化したためによるの かもしれません。 J.ローチはこれらの雲のような衛星を1975年OSO(軌道太陽天文台)6号衛星で 検出しました。 1990年にはそれらは再度ポーランドの天文学者ウィニアルスキーによって 写真撮影され、彼はみかけの直径が数度あり、最大10 度"トロージャン"点 から離れたり、さらに黄道光より少し赤くなっていることを見つけました。
このように、'第二の月' は誰もが考えていたものとはまったく異なっていましたが、 1世紀にもわたる地球の第二の月探しは成功裏に終わりました。 これらは検出は非常に難しく、黄道光、特にゲーゲンシャインと見分けるのも 難しいものです。
しかし今だに、地球にはさらに天然の月が存在すると提案する人たちがいます。 1966年と1969年、アメリカの科学者ジョン・バーグビーは望遠鏡でなければ 見えないような小さな自然の月を少なくとも10個観測したと報告しました。 バーグビーはすべての衛星の楕円軌道を決定しました。離心率 0.498、長半径 14065 km で、この値は近地点、遠地点距離がそれぞれ 680 km と 14700 km になります。 バーグビーは1955年12月に壊れたもっと大きい天体の破片であると考えました。 彼は、おもに人工衛星の摂動を基にして、この衛星の存在を導きました。 バーグビーはゴダード衛星位置報告からの人工衛星のデータを使っていました が、その報告に公表されている値は概略値であり、ときどき大きな誤差 があるので、科学的な精密な解析には使えないものであることに気づかなかった のです。 さらにバーグビー自身の観測から、バーグビーの衛星が近地点には1等級で 見えるはずでしたが、肉眼で簡単に見えるはずなのに、そのようなものを見た人は誰もいないのです。
1643年、カプチン会の修道士アントン・マリア・シュリルが本当に火星の 月を発見したと報じました。現在ではその当時の望遠鏡では無理である ことがわかっています。--たぶんシュリルは火星の近くの星にだまされた のでしょう。
1727年、ジョナサン・スウィフトは"ガリバー旅行記"にリリパット国の天文学者 によって知られた火星のまわりを回る2つの月のことについて記しています。 それぞれの自転周期は10時間と21.5時間です。 この月は1750 年にボルテールによって彼の"マイクロメガズ"という、 シリウスからの巨人が私たちの太陽系を訪問する小説の中で採用されました。
1747年ドイツ人のキンダーマンは1744年7月1日に火星に月(1つだけ!) を発見したことを報じました。キンダーマンは火星の月の軌道周期は59時間50分6秒 であると報告しました。
1877年、アサフ・ホールはとうとう 火星の2つの月< a href="phobos.html">フォボスと デイモスを発見しました。 その軌道周期は7時間39分と30時間18分で、150年昔に ジョナサン・スウィフトは想像した周期にきわめて近い値でした。
1905年、ピッカリングは10番目の月を見つけ、テーミスと名付けました。 ピッカリングによるとこの衛星の軌道はティタンとヒペリオンの間にあり、かなり 傾斜角が大きいということでした。土星からの平均距離は1,460,000 kmで 軌道周期は20.85日、離心率は0.23,傾斜角は39度です。 テーミスは再び観測されることはありませんでしが、それにもかかわらず天体暦や天文学の本 には1950年代、1960年代まで記載されていました。
1966年ドルフスは土星に別の新しい月を発見しました。 それはヤヌスと名付けられ、土星の輪のすぐ外側 に軌道をもっていました。 この衛星は暗く、輪に近かったので1966年に土星の輪が真横から見れる時 しか確認のチャンスはありませんでした。現在、ヤヌスは土星の10番目の月として 知られています。
1980年、土星の輪は再び真横から見れる位置になり、 突風のような観測によって土星の輪の近くに多くの新しい衛星が発見されました。 ヤヌスの近くには別の衛星が発見され エピメテウスと命名されました。 それらの軌道はお互いに非常によく似ており、この衛星の組の最も 興味深い点は、お互いに軌道を規則的に交換!していたのです。 1966年に発見された"ヤヌス"は実際はこの共軌道衛星両方の観測からで あったことがわかりました。 したがって1966年に発見された'土星の10番目の衛星'は実際は2つの違う月 だったのです! すぐ後で土星近くを通過した惑星探査機 ボイジャー 1号 と ボイジャー 2号は これを確認しました。
(この成功に刺激され、ルベリエは水星の 軌道のずれの問題に取り組み、水星の内側にある惑星、 バルカンの存在を報じましたが、これは後に存在しないことがわかりました。)
海王星の発見から1週間後の1846年9月30日、ルベリエはさらに外側 にもう一つ未知の惑星があることを断言しました。 10月10日、海王星の大きな月トリトン が発見され、これによって海王星の質量が正確に求められました。 その値は天王星の摂動から予測されたものより2%大きいことがわかったのです。 それはちょうど天王星の運動のずれが実際は2つの惑星によって引き起こされて いるようでした。さらに海王星の実際の軌道はかなりアダムスやルベリエが共に 予測した軌道と違っていたのです。
1850年、ファーガソンは小惑星ハイゲイアの運動を観測していました。 ファーガソンの報告を読んだ者の中にハインドがおり、彼はファーガソンの 使った基準星を確認しました。 ハインドはファーガソンの基準星の1つを見つけることができませんでした。 海軍天文台にいたモーリーもまたその星を見つけることができませんでした。 数年間それはもう一つの惑星の観測だと思われていましたが1879年別の 解釈が示されました:それはファーガソンは自分の観測の記録をする際、誤りをおかした というものです。もしこの誤りを補正すれば、別の星が彼の"行方不明の 基準星"とぴったりとあうことがわかりました。
海王星の外側の惑星を探す最初の真剣な試みは1877年デビッド・トッドによって なされました。 彼は"図を使う方法"を使い、天王星のずれの説明には決定的ではありませんでしたが 海王星の外側の惑星の軌道要素として平均距離52 a.u.、周期375年、 明るさは13等級より暗いと考えました。 1877.84年の黄経は10度の不確定さはあるが170度であるとしました。 軌道傾斜角は1.4度で昇交点黄経は103度でした。
1879年、カミール・フラマリオンは海王星の外側の惑星の存在について別の ヒントを与えました。周期彗星の遠日点が主な惑星 の軌道のあたりに集中する傾向があるということです。 木星はそのような彗星のかなりの部分を占めており、土星、天王星、海王星も それぞれいくつかと関係していました。 フラマリオンは2つの彗星、120年周期、遠日点47.6 a.u. の1862 IIIと もう少し周期の長く遠日点49.8 a.u.の1889 IIを発見しました。 フラマリオンは仮想的な惑星はたぶん45 a.u.のところにあると考えました。
1年後の1880年、フォーブス教授は彗星の遠日点とその惑星軌道との関連 に関するメモを出版しました。 1900 年頃までに5つの彗星が遠日点を海王星軌道の外側にもっており、 フォーブスは海王星の外側の惑星として1つは約100 a.u. のところを 周期1000 年で運動しており、もう一つは300 a.u.のところを周期 5000 年で運動していると考えました。
次の5年間、数人の天文学者・数学者が太陽系の外部に何が見つかるかという 考えを発表しました。 パリ天文台のガイロットは45 a.u.と60 a.u. にある2つの外部惑星を仮定しました。 トーマス・ジェファーソン・ジャクソン・シーは3つの外部惑星を予言しました。 それは41.25 a.u.で272年周期の"オセアヌス"、56 a.u.で420年周期の "トランスオセアヌス"、そして最後に72 a.u.で610年周期のもう一つの 惑星です。 ドイツ、ミュンスターのセオドール・グリガル博士は1902年、彼自身が"ハデス" と名付けた50 a.u.、周期360年の天王星程度の大きさの惑星を仮定しました。 グリガルの考えは主として海王星軌道よりも遠日点が遠い彗星の軌道を元にしていました。 そのような天体の引力が観測された天王星の運動のずれを引き起こすかどうかの 互いの証拠になると考えたのです。 1921年グリガルは"ハデス"の軌道周期を310-330年に改訂し、観測されたずれとの 一致をより一層よくしました。
1900年コペンハーゲンのハンス-エミル・ローは2つの海王星外部惑星を それぞれ距離が46.6 a.u.と70.7 a.u.、質量が9と47.2地球質量で、近い方の 惑星の明るさを10-11等あると発表しました。 この仮想的天体の1900年の黄経は非常に大きな180度の不確定さで 274度から343度でした。
1901年、ガブリエル・ダレットは仮想的惑星の距離を47 a.u.で明るさは 9.5-10.5等、1900年の黄経を358度と導きました。 同じ年、セオドール・グリガルは海王星外部惑星の黄経を導き、ダレットの 惑星から6度以内、後違いを2.5度以内までにしました。 この惑星は50.6 a.u. にあると思われました。
1904年、トーマス・ジェファーソン・ジャクソン・シーは42.25,56と72 a.u. に3つの 海王星外部惑星を示唆しました。 内側の惑星は272.2年周期で1904年の黄経は200度であるとしました。 アレクサンダー・ガルノウスキというロシアの将軍は4つの仮想的な惑星を考えましたが、 それについての詳細は与えていません。
海王星外部惑星の予測の中でもっとも注意深い2つは両方ともアメリカ人に よるものでした。ピッカリングによる "海王星の外側に惑星を探す" (Annals Astron. Obs. Harvard Coll, vol LXI part II 1909), と パーシバル・ローウェルの "海王星外部惑星に関するメモ"(Lynn, Mass 1915)です。 2人とも同じテーマに違った方法で取り組み、異なった結果にたどり着きました。
ピッカリングは図を使った解析で51.9 a.u.、375.5年周期で地球の倍 の質量をもち11.5-14等の"惑星O"を予測しました。 ピッカリングはその後24年の間に他に8つの海王星外部惑星を考えました。 ピッカリングの結論によってガイロットは自分の2つの海王星外部惑星の 距離を44 a.u.と66a.u.に改訂し、質量を5と24地球質量にしました。
1908年から1932年、何よりもピッカリングが7つの仮想的惑星-- O, P, Q, R, S, T と Uを提案しました。 彼の最後の要素OとPは元のものとは完全に違う物体で、合計で9つで確かに 惑星の予言としては記録的ででした。 ピッカリングの予測のほとんどは好奇心からの、ちょっとした興味にすぎませんでした。 1911年ピッカリングは惑星Qは地球の2000倍の質量があり、木星の63倍以上で 太陽の1/6、すなわち恒星になる下限の質量程度であると考えました。 ピッカリングは惑星Qはきわめてゆがんだ楕円軌道をもつといっています。
後年、惑星Pだけが真剣に彼の注意を引きました。 1928年、彼は惑星 Pの位置を123 a.u. から67.7 a.u. に、周期も1400年 から556.6年に下げました。 彼は惑星Pの質量として20地球質量、明るさは11等級であるとしました。 1931年、冥王星の発見後,彼は惑星Pの楕円軌道として 距離を75.5 a.u., 周期 656年、質量は50地球質量、離心率は 0.265、軌道傾斜角は 37度と、1911年に与えた軌道値に近い値を与えました。 彼の惑星Sは1928年に提案され1931年に軌道要素が与えられ、距離は48.3 a.u. (ローウェルの惑星Xの47.5 a.u.に近い)、周期336年、質量は地球の5倍で 光度は15等級であるとされました。 1929年、ピッカリングは距離が5.79 a.u.、すなわち木星のすぐ外をめぐり、 周期が13.93年の惑星Uを提案しました。 その質量は0.045地球質量で、離心率は0.26でした。 ピッカリングの惑星の中でも最小のものは惑星Tで、1931年に提案され、 距離は32.8 a.u.、周期は 188年でした。
ピッカリングの惑星Oに対する異なる要素は:
平均距離 周期 質量 等級 昇交点黄経 1908 51.9 373.5 年 2 地球質量 11.5-13.4 105.13 1919 55.1 409 年 15 100 15 1928 35.23 209.2 年 0.5 地球質量 12火星表面の運河で有名なパーシバル・ローウェル はアリゾナのフラグスタフに私設天文台を建設しました。 ローウェルは彼の仮想的惑星を惑星 Xと名付け、数回の探索を試みました が失敗に終わりました。 ローウェルの惑星Xの最初の探索は1909年に終了しましたが、1913年彼は第二の探索 を惑星Xの新しい予言とともに開始しました。その軌道要素は1850年1月1日分点で 平均黄経 11.67度、近日点通過黄経 186度、離心率 0.228,平均距離 47.5 a.u. 、 昇交点黄経 110.99度、軌道傾斜角 7.3度で太陽の1/21000 の質量という ものでした。 ローウェルや他の人たちは1913-1915年、この惑星Xを捜索しましたが収穫はありませんでした。 1915年、ローウェルは惑星Xの理論的結論を発表しました。 皮肉にもまさにその年、1915年、ローウェル天文台で2つのかすかな 冥王星の像が記録されたのですが、冥王星が発見(1930年)されるまで そうとは気づかれませんでした。 ローウェルは惑星X探索の失敗によって、非常に人生に失望しました。 彼は晩年の2年間、惑星Xの探索にあまり時間をかけませんでした。彼は 1916年に亡くなりました。 この第二の捜索で1000枚近くもの写真が撮られましたが、その中には 515 個の小惑星,700個の変光星、そして 冥王星(!)が2枚に写っていたのでした。
第三の惑星Xの捜索は1927年4月に始まりました。1927-1928年は 進展はありませんでした。1929年12 月、カンザスから若い農夫の少年であり アマチュア天文家のクライド・トンボー が捜索のために雇われました。 トンボーは1929年4月に仕事を開始しました。1月23日と29日、トンボーは 1組の写真を撮りました。2月18日にそれを検査して彼は冥王星を見つけました。 それまでにトンボーは数百枚もの写真乾板の上で数百万もの星を調べていました。 惑星Xの探索は終わったのです。
後に冥王星と呼ばれるようになったこの新しい惑星はがっかりするほど小さい ことがわかりました。多分わずか1地球質量から地球の約1/10もしくはそれ 以下というもの(1979年に冥王星の衛星 カロン が発見されて、冥王星とカロンの 組の総質量は地球の1/1000程度になったのです!)でした。 惑星Xは、もしそれが天王星の軌道を乱すものならば、それよりはるかに大きい はずだったのです! トンボーはさらに13年間捜索を続けました、そして天の北極から赤緯-50度まで、 16-17等級場合によっては18等級まで探査しました。 トンボーは空の30000平方度にわたって3000万個の星の9000万個の像 を検査しました。 彼は1つの新しい球状星団、5つの新しい散開星団、1つの1800個の銀河から なる超銀河団と数個の小さな銀河団、1つの新しい彗星、約775個の新しい小惑星 を発見しました--しかし冥王星以外の惑星は発見できませんでした。 トンボーは16.5等より明るい未知の惑星は存在しないという結論に達しました。 ほとんど極軌道をもち、天の南極近くにある惑星だけが彼の探索を逃れる ことができただけです。 彼は海王星程度の大きさの惑星の場合冥王星の7倍の距離まで、もしくは 冥王星程度の大きさの惑星では60 a.u.まで検出できたはずでした。
冥王星のネーミング はそれだけで物語になります。 この新しい惑星の名前に対する初期の候補として:アトラス、チマール、 アルテミス、ペルセウス、バルカン、タンタラス、イダーナ、クロヌスがあげらました。 ニューヨークタイムズ誌はミネルバを提案し、レポーターはオシリス、バッカス、 アポロ、エレバスを提案しました。ローウェルの未亡人は最初はゼウスを提案していました があとでコンスタンスに変えました。 多くの人々はローウェルという名前を提案しました。冥王星が発見された フラグスタッフ天文台のスタッフはクロヌス、ミネルバ、プルート を提案しました。 数カ月後、惑星は公式にプルート(冥王星)と命名されました。 プルートという名前は元々はイギリス、オックスフォードの11歳 の女生徒ベネチア・バーニーによって提案されたものだったのです。
冥王星に対する軌道が最初に計算されると、その離心率は0.909で 周期はなんと3000年!でした。 このことはこの天体が本当に惑星であるのかどうか疑念を抱かせました。 しかし、数カ月後かなりよい軌道要素が得られました。 下に示すのはローウェルの惑星X、ピッカリングの惑星O、そして冥王星 の軌道要素です。
ローウェルの X ピッカリングの O 冥王星 a (平均距離) 43.0 55.1 39.5 e (離心率) 0.202 0.31 0.248 i (軌道傾斜角) 10 15 17.1 N (昇交点黄経) (予測なし) 100 109.4 W (近日点黄経) 204.9 280.1 223.4 T (近日点通過日) 1991年2月 2129年1月 1989年9月 u (平均年周運動) 1.2411 0.880 1.451 P (周期、年) 282 409.1 248 T (近日点通過日) 1991.2 2129.1 1989.8 E (黄経 1930.0) 102.7 102.6 108.5 m (質量, 地球=1) 6.6 2.0 0.002 M (等級) 12-13 15 15冥王星の質量を決定するのは非常に困難でした。その時その時でいくつかの 数値が与えられました。それは1978年6月ジェームズW.クリスティが冥王星の 衛星カロンを発見するまで続きました。冥王星は私たちの月の 20% の質量しか もっていなかったのです。 ということは冥王星は天王星や海王星に対して測定可能なほど十分な 重力的摂動を与えるのは絶望的に小さいということでした。 冥王星はローウェルの惑星Xではありえなかったのです。発見された惑星は 考えられていた惑星ではなかったのです。 もう一つの天体力学の勝利と思われていたことは偶然--もしくはクライド トンボーの探索の知性と完全性の結果ということになってしまったのです。
冥王星の質量は:
クロメリン 1930: 0.11 (地球質量) ニコルソン 1931: 0.94 ワイリー, 1942: 0.91 ブロワー, 1949: 0.8-0.9 カイパー, 1950: 0.10 1965: <0.14 (冥王星による暗い星の掩蔽) ザイデルマン, 1968: 0.14 ザイデルマン, 1971: 0.11 クルイクシャンク, 1976: 0.002 クリスティ, 1978: 0.002 (カロン発見)また別の短命の海王星の外側の惑星疑惑は1930年4月22日にカナダ、オタワの R.M. スチュアートによって1924年に撮られた写真乾板を元に報告されています。 クロメリンが軌道(距離 39.82 a.u., 昇交点黄経 280.49 度, 傾斜角 49.7 度!)を 計算しました。 トンボーはこの"オタワ天体"を探したが見つかりませんでした。他にも数人が探索を 試みたが失敗に終りました。
その間にもピッカリングが上記の新しい惑星の予言を続けていました。 他の人もまた理論的な根拠から新しい惑星を予測しました。 (ローウェル自身はすでに75 a.u.のところに第二の海王星外部惑星を予測 しています。) 1946年、フランシス M.E. セビンは冥王星の外部惑星を78 a.u.のところに 予測しました。 彼はまず最初に惑星と風変わりな小惑星ヒダルゴをもとに その外側と内側の軌道をもつ2つのグループに分けるという奇妙な経験的方法から導きました。
グループ I: 水星 金星 地球 火星 小惑星 木星 グループ II: ? 冥王星 海王星 天王星 土星 ヒダルゴ彼は各々惑星の組の周期の対数を足し合わせ、その和が一定の約 7.34 になる ことを見つけました。 この和が水星と冥王星外部惑星の組にも成り立つと仮定して彼は"トランスプルート" (冥王星外部惑星)に対して周期は約677年であるという結論を得ました。 後、セビンは"トランスプルート"の全ての軌道要素を導きました。距離は77.8 a.u. 周期 685.8年、離心率0.3、質量は地球の11.6倍。彼の予言はあまり天文学者には 興味は引かれませんでした。
1950年、ミュンヘンのK.シュッテは8つの周期彗星のデータから冥王星外部惑星 が77 a.u.にあると考えました。 4年後、カールスルーエのH.H.キッチンガーは同じ8つの彗星を使いさらに 詳細に検討を加え、65 a.u. のところに周期 523.5年、軌道傾斜角 56度で 明るさを11等級の惑星としました。 1957年キッチンガーはさらに問題に取り組み新しい軌道要素を距離 75.1 a.u.、 周期 650 年、軌道傾斜角 40度で光度10等級という結論に達しました。 写真による探査に失敗した後、彼は1959年再びこの問題に挑戦し、 平均距離 77 a.u.、周期 675.7 年、軌道傾斜角 38度、離心率0.07で セビンの"トランスプルート"とよく似た、またある部分はピッカリングの 最後の惑星Pとも共通点の多い軌道要素になりました。 でも、そのような惑星は結局発見されていません。
ハレー彗星もまた冥王星外部惑星を探る "指針"として使われました。 1942年 R. S. リチャードソンは 36.2 a.u.、ハレー彗星の遠日点の 1 a.u. 彼方 のところに地球程度の大きさの惑星があればハレー彗星の近日点通過を遅らせ、 観測とよく合わせられることを発見しました。 35.3 a.u. のところに地球の質量の1/10の惑星があれば、同じ効果が期待できます。 1972年、ブラディは 59.9 a.u.のところに周期 464 年、離心率 0.07、軌道傾斜角 120度 (すなわち逆方向の軌道にある)で、13-14等級、土星程度の質量をもつ惑星 を予言しました。 そのような冥王星外部惑星はハレー彗星の残差を 1456年の近日点通過まで さかのぼって少なくすることができました。この巨大な冥王星外部惑星も探索されました が結局見つかりませんでした。
トム・ファン・フランデルンは1970年代の天王星と海王星の位置を調べました。 海王星の計算された軌道はわずか数年しか観測と合わせることができず、 その後ずれはじめました。 天王星の軌道は1周期の間は観測と合わせることができましたが、その前の 周期には合わせられませんでした。 1976年、トム・ファン・フランデルンは10番目の惑星があることを確信 するようになりました。 1978年のカロンの発見により冥王星の質量が期待されたものよりかなり 小さいのがわかった後、ファン・フランデルンは彼のUSNO(アメリカ海軍天文台)の同僚 ロバート・S・ハリントンにこの10番目の惑星の存在を納得させました。 彼らは協力して海王星の衛星系の研究を開始しました。すぐに彼らの 考えは違ってきました。 ハリントンは10番目の惑星は天王星と海王星の間にあると思ったのですが、 ファン・フランデルンは海王星の軌道より外側にあると考えました。 ファン・フランデルンはボイジャー 2号 によってもたらされる海王星の改訂質量のように、さらにデータが必要である と考えました。 ハリントンはがむしゃらに惑星探査を開始しました--彼は1979年に開始 しましたが、1987年までいかなる惑星も見つけられませんでした。 ファン・フランデルンとハリントンは10番目の惑星はかなり離心率の大きい 軌道で遠日点付近にあるかもしれないと考えました。 もし惑星が暗ければ、それはファン・フランデルンによると16-17等という 暗さかもしれません。
1987年、ホイットミアとマティスは 彼らの"ネメシス" 仮説のかわりに、80 au.u.の距離に周期 700年で おそらく軌道傾斜角 45度に10番目の惑星の存在を示唆しました。 しかし、ユージン M.シューメイカーによるとこの惑星はホイットミアとマティス が予測した流星群を引き起こすことはできなかったのです(以下を参照)。
1987年、JPL(NASAジェット推進研究所)のジョン・アンダーソンは 未知の重力源が見つかるかどうか 惑星探査機パイオニア 10号と パイオニア 11号の 運動を調べました。 何も見つかりませんでした。 -- このことからアンダーソンは10番目の 惑星の存在はありそうなことであると考えました。 アンダーソンは古い観測を信頼していましたが、 JPLは天体暦から1910年より以前の天王星の観測を取り入れていませんでした。 アンダーソンは10番目の惑星は非常に離心率の大きな楕円で、現在でこそ 観測できないが、周期的に太陽系外部の惑星の軌道を乱すほど近くまで 近づくと結論しました。 彼は質量は地球の5倍で、軌道周期は約 700-1000年、軌道傾斜角は かなり大きいと考えました。 この惑星による外部惑星への乱れは 2600年まで検出できないでしょう。 アンダーソンは2つの惑星探査機ヴォイジャーがこの惑星の位置を 示すのに役立つだろうと期待しました。
コンリー・パウウェルも惑星の運動を解析しました。 彼はまた1910年以前よりそれ以後の方が天王星の観測が突然非常によく合う ようになることを見つけました。 パウウェルは太陽からの距離 60.8 a.u.で 地球質量の2.9 倍、周期 494年、 軌道傾斜角 8.3度で離心率の小さい軌道を考えました。 パウウェルは周期が冥王星の約2倍で、海王星の3倍であることから 距離は離れてはいるが互いの共鳴によって軌道が安定化されていると 考えました。 惑星として提案された天体はふたご座で冥王星がみつかったときよりも 明るいと思われました。 パウウェルの惑星の探索は1987年、ローウェル天文台で行われましたが、 何も見つかりませんでした。 パウウェルは自分の解を再度見直し、軌道要素を以下のように改訂しました。 0.87地球質量、距離 39.8 a.u.、 周期 251年、離心率 0.26、 すなわち冥王星の軌道と非常によく似ています! 現在、パウウェルの新しい惑星はしし座に12等の明るさであるはずですが、 パウウェルはさらにデータを解析することが必要で、探索は時期尚早であると 思っています。
たとえ冥王星外部惑星が見つからなかったとしても、興味は太陽系の外部領域に 向けられてきました。 木星と土星の間に軌道をもつ奇妙な小惑星ヒダルゴについてはすでにお話しました。 1977-1984年、チャールス・コワル は パロマー天文台の 48インチシュミット望遠鏡を使って、太陽系の中の未知の天体の 新しい系統的な探査を行いました。 1987年10月、彼は平均距離 13.7 a.u., 周期 50.7年、離心率 0.3786、軌道傾斜角 6.923度、直径約 50 km の後にキロンと名付けられた小惑星 1977UBを見つけました。 この探索の間にコワールは5つの彗星と発見されたとき最も遠距離の小惑星キロンも 含めて15個の小惑星も見つけています。 コワールは更に見失われていた4つの彗星と1つの小惑星も見つけました。 コワールは10番目の惑星を発見することはできませんでしたので、黄道から3度 以内には20等より明るい惑星はないと結論しました。
キロンは最初は"10番目の惑星"として報告されましたが、すぐに小惑星と されてしまいました。しかしコワールはキロンは非常に彗星に似ているのでは ないかと疑いましたが、後に短いですが彗星のような尾が延ばしました。 1995年、キロンは彗星にも分類されました--これは私たちが知っている中で 最大の彗星です。
1992年、更に遠くの小惑星フォラスが見つかりました。 その後1992年に冥王星より遠くの軌道にある小惑星が発見され、 その後1993年にはさらに5つの、1994年には1ダースもの冥王星外部小惑星 が発見されたのです!
その間、惑星探査機パイオニア10号、11号とボイジャー1号,2号は太陽系を 出てゆき、未知の惑星からの重力を探るための"指針"として使えるはずでしたが、 何も見つかりませんでした。 ボイジャーは外部の惑星のより正確な質量も導きました。 この改訂された質量を太陽系の数値積分に代入すると、外部の惑星の 位置の残差は結局なくなりました。 "惑星X" の探索はとうとう終わったかに見えました。 "惑星X"(冥王星は実際に数にいれません)はなかったのです、しかし かわりに海王星/冥王星の外側に小惑星帯が見つかりました。 1993年8月に知られた木星軌道の外側の小惑星は以下のとうりです。
小惑星 a e 軌道傾斜角 昇交点 近日点引数 平均近点角 周期 名前 a.u. 度 度 度 度 年 944 5.79853 .658236 42.5914 21.6567 56.8478 60.1911 14.0 ヒダルゴ 2060 13.74883 .384822 6.9275 209.3969 339.2884 342.1686 51.0 キロン 5145 20.44311 .575008 24.6871 119.3877 354.9451 7.1792 92.4 フォラス 5335 11.89073 .866990 61.8583 314.1316 191.3015 23.3556 41.0 1991DA 1992QB1 43.82934 .087611 2.2128 359.4129 44.0135 324.1086 290 "スマイリー" 1993FW 43.9311 .04066 7.745 187.914 359.501 0.4259 291 "カーラ" 元期: 1993-08-01.0 TT1994年11月、海王星外部小惑星は以下のものが知られています。
天体 a e 軌道傾斜角 R 等級 直径 発見年 発見者 a.u. 度 km 日付 1992 QB1 43.9 0.070 2.2 22.8 283 1992 8月 ジェウィット & ルー 1993 FW 43.9 0.047 7.7 22.8 286 1993 3月 ジェウィット & ルー 1993 RO 39.3 0.198 3.7 23.2 139 1993 9月 ジェウィット & ルー 1993 RP 39.3 0.114 2.6 24.5 96 1993 9月 ジェウィット & ルー 1993 SB 39.4 0.321 1.9 22.7 188 1993 9月 ウィリアムス他 1993 SC 39.5 0.185 5.2 21.7 319 1993 9月 ウィリアムス他 1994 ES2 45.3 0.012 1.0 24.3 159 1994 3月 ジェウィット & ルー 1994 EV3 43.1 0.043 1.6 23.3 267 1994 3月 ジェウィット & ルー 1994 GV9 42.2 0.000 0.1 23.1 264 1994 4月 ジェウィット & ルー 1994 JQ1 43.3 0.000 3.8 22.4 382 1994 5月 アーウィン他 1994 JR1 39.4 0.118 3.8 22.9 238 1994 5月 アーウィン他 1994 JS 39.4 0.081 14.6 22.4 263 1994 5月 ルー & ジェウィット 1994 JV 39.5 0.125 16.5 22.4 254 1994 5月 ジェウィット & ルー 1994 TB 31.7 0.000 10.2 21.5 258 1994 10月 ジェウィット & チェン 1994 TG 42.3 0.000 6.8 23.0 232 1994 10月 チェン他 1994 TG2 41.5 0.000 3.9 24.0 141 1994 10月 ハイノート 1994 TH 40.9 0.000 16.1 23.0 217 1994 10月 ジェウィット他 1994 VK8 43.5 0.000 1.4 22.5 273 1994 11月 フィッツウィリアムス他 直径はkm単位(等級とアルベドの推定を元にしており、多くの図に与えられています)"海王星外部天体"は2つのグループをなしています。 1つは冥王星、1993 SC, 1993 SB と 1993 ROで楕円軌道で海王星と 3:2の共鳴をなしています。第2のグループは1992 QB1 と 1993 FW でやや外側で軌道の離心率は小さいです。
このことは3000万年ごとにこの仮想的な太陽の伴星は オールトの雲 (太陽から非常に離れたところに ある原始彗星からなる仮想的な雲)を突き抜けることでしょう。 このような通過の際、オールトの雲の中の原始彗星はかき混ぜられます。 数万年後、ここ地球では太陽系内部を通過する 彗星の数が劇的に増加することに気づくでしょう。 もし彗星の数が劇的に増加すれば、地球にこのような彗星のうちの1つの核 が衝突する危険も増加するでしょう。
地球の地質記録を調べると、約3000万年ごとに1回地球上では種の絶滅が おこっているように見えます。 このような種の絶滅の中で最もよく知られているのはもちろん 7500万年前に起こった恐竜の絶滅です。 この仮説によると今から約1500万年後が次の絶滅がおこる時です。
この仮想的な太陽の"死の伴星"は1985年南ルイジアナ大学のダニエルP.ホイットミア とジョン・マティスによって提案されました。 それはネメシスという名前までつけられました。 ネメシス仮説の驚くべきことは太陽の伴星が何であろうと、その証拠が何もなかったことです。 それは非常に明るくても質量が大きくてもだめで、太陽より十分に 小さく、暗く褐色矮星や暗黒矮星(恒星のように"水素燃焼"を開始できるほどには 質量が十分でない惑星のような天体)のようでなければなりません。 この星は特異、すなわち遠い星を背景として見かけ上高速度で運動している (すなわち視差)ことに誰にも注目されることなく、暗い星のカタログの1つに既に 載っている可能性があります。 もしこれが発見されたら地球上の周期的な種の絶滅の主な原因であることに疑い をもつ人はほとんどいなくなるでしょう。
しかし、これはまた架空の力を考えています。 もし前世代の人類学者がこのような話を報告を受けたら、学問的な書は 疑いなく'原始的'もしくは'前科学的'というような言葉を使うでしょう。 以下の話があります。
空にはもう一つ別の太陽、悪魔の太陽がありますが、私たちには見えない。 昔昔、ひいおばあさんの頃よりもっと昔、悪魔の太陽が私たちの太陽に 襲いかかった。 彗星がいくつも降り落ち地球に恐ろしい冬が襲いかかった。生ける者すべて が死に絶えた。悪魔の太陽は以前も何度も襲いかかっている。 またいずれ襲いかかるであろう。これがネメシス説を最初聞いたとき、見えない太陽が地球に彗星で 襲いかかるなんてのは妄想や作り話で、これは冗談だと思った科学者たちがいた 理由です。 それはさらに少々の懐疑説に値します。 私たちはいつも自分たち自身を欺く危険をはらんでいます。 しかしたとえ理論が推論的であっても、その主な考えは検証できるので 耳を傾ける価値はあります。その星を発見し、その性質を調べることが できるのです。
しかし、赤外線天文衛星IRASで遠赤外線で全天を調べても"ネメシス"は 見つかりませんでしたので、"ネメシス"のあまりありそうに思えません。
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